思い出のカタチ
コーヒーにはマグカップが、花には花瓶が、おせちには重箱が似合うように、この世にはそれぞれに適した容れ物やフォーマットが存在します。
それは有形のモノに限ったことではなくて、無形の知識や詞、そして記憶や感情にも言えること。
有形のモノと違い、無形の「モノ」達は「容れ物」というカタチを得て初めて、人に認識されて伝えられるようになります。
その「容れ物」には、言葉や写真、歌など様々な表現手法があるでしょう。
人は皆、自分の中の無形のモノを誰かに理解してほしくて、自分が一番伝えやすく、自分のイメージに近い「カタチ」に当てはめて贈るのです。
もっと伝わりやすいカタチ
monographを読んでいる方はご存知の通り、このブログではたくさんのモノを「文章」でお伝えしています。
モノのディティールや使い方、その良さを端的に要点を押さえて伝えるにはこの「容れ物」はとても優れていて、それを個別に管理できる「ブログ」というフォーマットも僕は好きです。
そして、個別の話から派生する大きな「考え」を伝えるためには、じっくり読者に向き合ってもらえる昨年出した本のような形式があっているなとも感じています。
今までは文章を使い、このような「情報」や「考え」を伝えるための「容れ物」には困ることがなかったのですが、最近この「容れ物」のカタチに収まりきらない「モノ」があると感じるようになってきました。
それは「思い出」や「気持ち」と言った、もっとあやふやで輪郭が見えないモノ。数字や理論のような理性では語れないモノ。
言葉で語れないモノを伝えるためには、言葉以外の「容れ物」を用意しなければいけないと感じています。
思い出のカタチ
僕の中で言葉で表しきれないモノの一つに「思い出」があります。
後から文章にするとどうしても、推敲され美化されて、本来の輪郭と少しずれてしまう。
そんな「思い出」を収める「容れ物」として適しているなと感じたのはやはり「映像」でした。
映像の良さを感じたのは昨年末に訪れた北海道旅行の動画を作った時。
内容は旅のシーンを切り貼りしただけの拙いものなのですが、見返した時に自分の中で「楽しかったなぁ」「また行きたいなぁ」とこみ上げるものがあったんですよね。
昨日もカメカリというサービスの方と浅草にフォトウォークをしにいったのでちょっとVlogっぽい感じで動画を作ってみました。
言葉には表せないその場の空気感のようなものが、動画だと写り込んでいるような気がするんです。
以前、「映える」写真を、もっと撮りたい。という記事で写真は思い出のトリガーだ、という話を書きましたが動画は思い出を引き出すだけでなく、再上映してくれるタイムマシーン。
確かに記録するのも編集するのも面倒ですが、それだけの代償はきっとあると感じたので、これからは思い出はできるだけ、映像という「容れ物」で残していこうと思います。
動画の中で使った写真も置いておきます。
まだまだ伝え方は上手くないのでもっと伝わるカタチに整えて届けられるように頑張ろう。