「映える」写真を、もっと撮りたい。
2017/09/10
「インスタ映え」へのアンチテーゼとしてふかわりょうさんの「いいねなんて、いらない」という風向計の記事が話題になっています。どちらかと言うと賛同する声の方が多いような気がするのですが、僕は少しだけ違う思いを感じたので簡単に言葉にしてみようと思います。
僕はおじいちゃんが大好きでした。
おじいちゃんは若くして小さいながらも埼玉で農機具販売の会社を起こし、その資金を元に自動車学校を開校。その校長を務めた後、新たな事業を起こす最中に不慮の事故で亡くなったと僕はおばあちゃんから聞かされました。
僕がまだ幼い頃に亡くなってしまったこともあり、おじいちゃんの記憶はおぼろげで曖昧です。おじいちゃんが運転するクラウンの助手席に乗り、うつらうつらと船を漕ぎながらバックミラーに映るおじいちゃんの顔を眺めていた、というのが僕の中でのほぼ唯一のおじいちゃんとの思い出。とても乗り心地がよかったことは覚えているのでさすが自動車学校の校長なだけはあるなぁと今更ながら感心しています。
思い出はほぼ残っていないのに僕がおじいちゃんのことが大好きだといえるのは、昔おばあちゃんに見せてもらった一枚の写真。おじいちゃんの大きなお腹の上で遊ぶ幼い僕が映っていました。
そして写真に映っていたおじいちゃんの笑顔。僕のことを本当に大事に思ってくれたんだなということが見るだけで伝わる顔でした。
思い出は曖昧だけど写真は確実に「モノ」としてそこに残ります。人間の脳には限界があるので全ての思い出を保存しておくことはできません。ですが、写真があればそれをきっかけに「思い出す」ことはできます。ただトリガーが無いだけで、記憶が消えるわけではないのです。
だから僕は今、できるだけ写真を撮ろうと思って日々を過ごしています。それもその時、その場所の感情が溢れるような「映える」写真を。写真があれば思い出はもっと強いものになる。より精細で空気まで映すような写真を撮れるようになれば尚更です。
人生は一方通行、過去に戻ることはできません。できないからこそ、その一瞬を保存して忘れないようにする。そのためにできるだけ「今が映える」写真を撮っています。
「インスタ映え」と言うと撮影する人を揶揄されている印象がありますが、そんな声には一切耳を貸す必要はないと思います。いいじゃないですか、良い写真を撮りたいという心持ち。少しでも自分を綺麗に見せたい、目の前の景色を鮮やかに残したい、友達との楽しい思い出を振り返りたい、その気持ちは素晴らしいものです。
たとえ写真を撮るのが目的だとしてもその過程に思い出が生まれます。きっかけは何でもいいんです。人の目を気にして何もできないよりはるかに有意義な生き方です。パンケーキだろうがナイトプールだろうがただの口実。どんどん映える写真を撮りに行きましょう。
大人しいと言われる今の若者世代ですが、映える生き方は誰よりも知っています。そりゃもちろん棺桶もインスタ映えをするものを選ぶに決まってるじゃないですか。本人はいなくなっても写真と思い出は残り続けるのですから。